第3回:最低限のお飾り

立ち上げた。(第1回参照)
柱も決めた。(第2回参照)

ですが見てもらわなければ単なる自己満足。
見てもらっても自己満足かもしれんが

そこで、新参のWebサイト管理人は「相互リンク依頼」という名目で布教活動をするのです。

今考えると、ある程度コンテンツを拡充させてから、依頼するのが筋だったと思う。スカスカのサイトでリンク依頼をするのは失礼な事だったのだ。オフからのつながりでもない限り、断られるのが世の常。
ヘタこいたらBL入りもあったかも。

だが、当時はそれでも一定量の「相互リンク」を勝ち得たのです。

リツイートとかトラックバックとか無い時代は、こうして自己PRしていたものだ。

次は掲示板。当時はゲストブックとも呼んでいたっけ。

ただ、俺はとりあえず礼儀として置いておく程度という認識を、徹頭徹尾崩さなかった。最後までTea-cup製だったし。

一時期あった
掲示板が乱発してるだけのサイト
には辟易としたね。どことは言いませんけど。

これが世紀末のWebサイトの立ち上げ方だったんです。

LINEだのTwitterだのは勿論、2chgoogleすら無かった頃のノスタルジア

ぶっちゃけ、2chが全盛になってから個人のWebサイトは徐々に衰退していった、と俺は思うが、脱線してきたので機会があれば言うかも。

あとアクセスカウンタですか?あれはマニキュアみたいなもんです。無くても困らない。男なら尚更。

あれに振り回されると堅苦しい管理人生活になります。
もっとも今はページビューと言う方が普通か?

ところで、今日は2016年10月19日。サイトを立ち上げてから18年になります。

すっかり忘却の彼方だったけど、まあいいか。

第2回:二本柱の形成

衝動的に始まった、Webサイト管理人生活。

それでも最初は、トップページとか自己紹介ぐらいしかなかったので

1行追記⇒アップロード⇒1行追記⇒アップロード⇒誤字脱字修正⇒アップロード⇒1行追記⇒・・・

という無限ループってこわいね的なルーティンを繰り返していた。

ドラコーナーも、とりあえずメイン人物の紹介などを無計画で綴っていた。
ちょいちょい校正はしていたものの

赤面するほどのお恥ずかしい文章で。

・・・あかん。
これでは生き残れない。
そう思っていた。

独自性を打ち出さないと自然淘汰されちまう
そんな危機感。

ちょうどその頃、実況パワフルプロ野球(俗称パワプロ)にどっぷり浸かっていたのでどうせならコレをやってみるか、というのがきっかけ。あわよくば攻略情報も得られるし。

ドラもパワプロも、単体では優秀すぎる程のサイトは数多にあったのだが、あえてこの2つを同時に推したのは(当時)俺だけだった。
この2つがクロスオーバーするのは、ずっと先になるわけだが。

第1回:全ての始まり

そもそも、何故俺がWebサイトを持とうなどと考えたか。

元々はタイピング練習とか大学のレポート対策のために、PC(Windows95)を自費購入したのが始まり。

当時、クレジットカード不要という理由だけでニフティサーブと契約し、テレホタイムになったら東風荘に入り浸るという、まあ不健全極まりない学生生活をしていた。

その傍ら、ネットサーフィンにも手を出し、アハハウフフなものを探し求めて各地を徘徊していた。まだGoogleもサービス提供していない頃だったので、Yahoo検索が主だったと記憶している。

ふとした時に、ガキの頃から好きだった「ドラえもん」で検索。こう言っては何だが、その辺の人たちよりはドラえもんの事を知っている、という自信があったんですが

井の中の蛙

だったということを痛感しまして。

その当時からWebには想像を絶するほどの情報が溢れていた。

データベース系のサイトを目指しても見向きもされないな、と思うと同時に「でも何らかの形で俺も情報発信をしたい」という、恋に恋い焦がれるような気持ちも沸き上がった。

折しも、個人でWebサイトを持つことが、トレンディな斉藤さんだぞ状態だった事もあって

  • とりあえずトップページを作ろう
  • 骨付けは後で考えよう
  • こまけえ事はいいんだよ

という若気の至りで、トントン拍子で無理やり公開にこぎつけたのである。

ちょうどHTMLを覚えたいという気持ちがあったのも大きかった。

でもPCバンドルのホームページビルダーを使ってたけど