No.86 サイトの意義、公開の意義

ITmediaにあったこの記事を読んでいた。今日はそれについて。

俺がWebサイトを作り始めたのはまだ20世紀で、当然blogなんてのは存在してなかったし、インターネット自体もまだ発展途上だった。それだけにWebサイトの一つ一つが今より随分と個性的だった。だがインターネットが普及するにつれて、例えばトップと日記と掲示板しかなく、相互リンクもできないうちに閉鎖するような短命サイトが増えている。

ぶっちゃけ日記サイトやりたいならblogで事足りる。HTMLの知識がなくても全然余裕だ。だが皮肉なことに、短命サイトであるほど日記もアレな出来だったりする。例えば語尾に w ばっかつけてる日記はどうかと。

でblogの使い方は人それぞれなわけで、

ブログというシステムをどのように使おうが、まったく自由だ。テーマを決めて持論を展開している人、面白いネタで人気を集める人もいる。その一方で日記のように日々のことを書く人もいれば、個人的な備忘録としてリンク張り場にしている人もいる。

と言っている。

No.71でも書いたが本来のblog的な使い方はあまりしてなくて、基本は日記スタイル。ただその中にチクリを毒を忍ばせる論調でここを書いている。後はできるだけテーマが偏重しないように心がけてはいる。

とは言え↓は結構耳が痛いぞ。

「公開している」と「公開されている」の間では、字面は似ていてもその意識の差は大きい。「表現」とは、他人に伝えるということなのである。ブログ以前に勃興したいわゆる「個人サイト」では、ページの作成がプログよりも手間がかかることもあって、「公開している」意識の高い文章に出会うことが多かった。読み手に対して親切であれば、システムとしてブログを利用しようが自分でタグを書こうが、多くの読者を集めることができる。

俺はWebページありきで始めたので、メインコンテンツは(賛否両論あるだろうが)それなりにボリュームを充実させたつもりではいる。ただ「誰かのお役に立ちたい」で作ったコンテンツはごく僅かで、大半が「自己満足」という4文字に集約されるんだよな。
Web作成者は意図的にFTPでアップロードするが、俺のコンテンツを振り返ると「公開している」に足るものなのか?いや「後悔している」ではないのか?ちょっと自信がなくなる出来のものもある。特に初期の初期に作って放置しっぱなしの場所。目を覆いたくなるだろう。*1

最後にこう締めている。

「たかがブログ、そんなにちゃんとしなくても自分が楽しけりゃいいんじゃない?」という意見もあるだろう。しかしそれは、広く公開されちゃうのである。出すのも勝手、見るのも勝手のままでは、あまりにも無責任すぎるだろう。

恐らく短命サイトで終わる人は、こういう感覚がないんだろう。
責任の有無を口うるさく唱える気は毛頭ありません。ただ、自己弁護になるかもしれんが、どこかに少なからずサイトをやっていくことの責任感なのかな?それはあったんだろう。だから6年も7年もやってこれたのだろう。
でも更新頻度は鬼のように遅いが

*1:ヒマが売るほどあれば手直ししたいが・・・